akanechann’s diary

日記帳兼メモ帳兼文を書く練習

さいきんのおはなし

 また気付けば二月ぶりにブログを書いている。

 

 

 あれから結局関東に戻ってきて、しばらく浮いたり沈んだりを繰り返したのち、教習所に申し込んでみたり、ハロワにいってみたり、バイトを決めてみたりで、だんだん社会との接点が増えてきたところだ。

 

 

 教習所の400ccバイクはとても重く、一年ひきこもり、それ以前もまったく運動してなかった細枝みたいな体では、たいへん取り回しに難儀した。

 それでもお金払ってしまった以上投げ出すわけにもいくまいと通いつつ多少は運転もマシになってきて、身体も鍛えられていい調子だ。

 

 

 ハロワに離職票やらを持って、失業手当たらのお話を聞きにも行ってもみた。書類が足りず、以前住んでいたあたりの役所やら病院やらとコンタクトを取りつつ進めているが、どうなるかわからないので、直近の懸念ポイントではある。

 失礼にもなんとなく吹き溜まりみたいな所を想像していたが、職員の方は大学の就職課の職員なんかよりよほど懇切丁寧に仕事についてのお話をしてくれたし、通ってる人も私よりよほどしっかりしてそうな人も大勢いた。

 

 

 近かったので、と決めたバイトはとても体育会系で、向き不向きで言えば明らかに不向きあることが研修の段階から分かり切っているが、ながらくひきこもっていた身にしてみれば、ショック療法みたいなもので、しっかり耐えて、やっていくことで社会復帰には役立つだろうと逃げずに頑張ろうとは思っている。

 

 

 他にも、実家と連絡が出来るようになったり、ただ過ごすだけの日々の先を、それなりに見据えて考え出していたり(後日これについて書こうと思う)で、近況は、と言えば不安定、先行き不透明だが、案外悪くない気もしている。

 

 未だに時々底まで沈んでしまうので、そこだけなんとかできれば、そこまで悪くない、少しだけれど希望のある人生を送れているはず。

 

 よかったことさがし、でもしつつ暮らしてみよう

 

 

 

 

 

 

 

ようやく関東に帰れる話

 特に目標を設定していたわけでもないが、かれこれ二月ブログを放置してしまった。

 

 好きな時に好きなだけ、で済むことだから別に良いのだろうけど、済まない事まで続かないのが私だ。

 

 それは置いといて、ようやく引っ越し先、日程が決定した。

 

 無職である上に、休職までしていたものだから、それはもう物件探しは難航した。申し込んでは断られ、申し込んでは断られの繰り返しだったが、最後はそこそこ良いところに決められたようで、一応の勝利だろうか。

 

 去年の四月に訳も分からないままこちらへ来てしまって、そのまま体を壊し、無駄に長々と考える時間でもって、結局出戻りに近い形ではあるが、少なくともこちらへ来た時よりは希望を持って引っ越しが出来るのだから、状況は好転しているとみて良さそうだ。

 

 結局のところ、人間生きるために生きる、というのは難しかったという事だ。私自身が望むことの為に生きる、という他の人ならとっくの昔に気付いていたであろう事だけど、ようやくそこへ至ることが出来たのだから、今後はそのために選んだ土地で、そのため、また他の事にもしっかりアンテナを張りつつ生きていけたらと思う。

 

 具体的にはバイクに乗ってあちこちへ行ってみたい。昔望んで叶わなかったきり忘れていた夢だ。新居は山へも海へも都会へも行ける好立地であるから、きっと楽しめる事だろう。最もそのためには免許の取得から始めるわけだが。

 

 一方で生きるためにはお金も必要なのもまた事実なわけで、そこに関しては取り敢えず受給している傷病手当はまだ効く。その後は職業訓練校なんかも使いつつ、失業手当を受けることも出来るだろう。

 

 さんざん主治医にも言われたが、人には向き不向きがある、今回の事でそれは私自身が重々理解したし、なんとか心穏やかに続けていけることを手当てが出ているうちに見つけられたらなと祈りつつ。

 

 

 変わらずの思いつくままの乱文だが、やはり書き起こすと多少自分自身の整理にもなるし、今後ものんびり続けて行こうとは思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現状を整理したいお話

 気付けば結構時間が過ぎてしまった。

 体調崩したり生活リズムがガタガタになったり、状況は芳しくない。

 

 

 結局あれから色々考えていたが、やはり現実的なのは病気退職のような形で退職し、失業手当をもらいながら東京神奈川あたりで職を探すことなんだろう。

 

 東京は人も多いし狭苦しい、あちこち汚いし、住むのが楽しい街ではない。一方で仕事は多いし、流動的であって閉鎖的ではないから暮らしにくいという事もない。

 

 私が憧れた海の街や山の街は、確かに自然豊かで美しい景色もあるが、住もうと思って調べてみると、いかんせん仕事がない。有っても単一の職種で、畑違いも甚だしいものだから、入り込みようがない。また、何かの間違いで山中の訳の分からない職場に飛ばされた際、それは酷く村社会的で吐き気がするほどの居心地の悪さを感じたし、職場にも住まいにも、人が居なさ過ぎて新たな人間関係の形成がとても難しい。ついでに過去、大学時代に山村の巨大な農家へ行った際には異常な価値観で暮らしているところを目の当たりにしたこともあったし、とてもではないが都会で育った人間が暮らしていけるような場所では無いのだろうという事は、冷静になって考えてみれば、というより分かってはいたことではあるのだけど。

 

 にも拘らず、相も変わらず選択肢として残ってしまっていたのは、やはりそれでも数少ない私の望みとして、美しいところに住みたいというものがあったからだろう。

 

 で、色々考えたり思い出したりした結果、東京にも近くて、そこそこ自然豊かなところに住むというものがあり、場所の目星が複数個所付いてはいる。そこで仕事を探して、季節には住みたかった場所へ期間限定で行く、と言うのがおそらくベストで、私が生きていけて、かつ求めるものにも近いのかなぁと言うのが回らない頭で無理矢理だした結論だ。

 

 それに向けて今やることと言えば、やはり利用できる制度をしっかり理解して、なるべく有利な形で会社を離れる事なんだろう。実際に次の生活云々はひとまずそこの目途が経ってからではないとやりようが無いな。

 

 あー、海行きたい

思った以上に時間が無かった話

 薄々そんな空気は感じていたが、いよいよ会社の方がこの面倒事を本気で処理しに掛かってきた。

 

 実質的に来月末でお休みは終わりらしい。続けていくか、辞めるか決めないといけないそうだ。

 

 取り敢えずとして、適正のありそうな職場を伝えてそういう事業所、ポストに収まりたい、と言うのが表向きの態度としてある。実際に面談でそう伝えた。

 だがしかし、やはり業種自体が間違いなく不向きなのは確かなようで、取り敢えずこのド田舎を脱して東京か神奈川へ戻った上で、傷病手当を離職後も貰いつつ次を探る、もしくはアルバイトしつつ、それかリスキーながらも直で移住目的地へ行ってしまうという選択肢も同時に存在している。

 

 あれやこれやとのんびり考えていたが、いざ決断を迫られるとなかなかに堪える。

 

 まぁ私自身にはもう可能性があるようでないようであるのかもしれないし実際のところありやしないという事実をしっかりと直視して、まずは表向きの態度をしっかりとりつつ、裏では実際にどこへ引っ越すのか、アルバイトするのか、傷病手当を受けるのか、また各々の場合の試算をしっかりとするのが今やるべきことだろう。

 

 復職を選択しなかったっ場合、最後の挑戦をしてみてもいいし、しなくてもいいって感じか。一方は年齢制限もあるが、もう一方はそうでもない。となると答えは見えているようなものだけれど。

 

 なるようになる、ではなく少しでも良い選択が出来るように、焦ることなく冷静にクールにしたたかに立ち回らないといけないな。むずかしい...が、まぁなんとかなることを祈りつつ

 

林業就業支援講習が終わって今後の話

 疲れた。疲れてた。終わってから実に一週間寝込んでいた。やはり半年のブランクは大きかった。

 

 結論から言えば、得るものは多かった。それぞれ、講習の内容自体から、講習を受けるにあたってあれこれしたことから、それから他の参加者の方との交流から。

 

 講習からは座学では木材需要の低下が主たる理由の林業の現状の厳しさや、指が何本もない経験者からやたら説得力のある怖い話で危険性を知ることが出来、その時点で適正の無さが分かり、実習では各種機械の取り扱い及びさほど太くない木の伐倒の技術を修得して、そのあまりの体力勝負具合に二度目の適性の無さを実感し、それから諸々の教習で各種資格を取ることができた。

 

 講習に参加するにあたり、あちこち駆けずり回り、酷い環境で寝泊まりした経験から今一度定住のすばらしさと閑静な地域の良さを再確認できた。

 

 そして、職を転々としながらも凄いバイタリイティで今後も挑戦し続ける人、新しく事業を始めるにあたっての材料探しをしている人、私と同じような人、さまざまな身の上の他の参加者の方と久しぶりにまともに会話することで、いくらか自分自身の先を考える上での参考になったり、省みる事にも繋がった。

 

 

 そんなこんなで良いリハビリにはなったし、今後につながる経験ができたと思う。キツそうなのは目に見えてたし、実際キツかったが参加を決めたのは久方ぶりの正しい選択だったようだ。

 

 取り敢えずの再確認として、私には多くの人と積極的に交流し続ける事や他の人のペースで延々作業を続ける事、遠すぎる通勤は難しい。忙しなさすぎず、多少は自分のペースを保てて、じっくり取り組める事に適性があるであろうことは分かった。

 もともと真面目だ真面目だ人に言われてたことがどういう事だったのか、また真面目に適正について考えるのが数年ばかり遅かったという事実はさておき、漠然としているようで確かに半歩半歩進んでいるようには思える、悪い事ではないのだろう。

 

 

 で、今後の話であるが、まず直近に休職中の職場からの接触があった。流石にしびれを切らしたようで、近く面談があるらしい。

 ここで私がやるべきことは、今までならとにかく時間を先延ばしにするために演技派と化していただろうが、思い返してみればいくらでも職種が会社内にある程度には大きい会社だったはず。そのうち適性のある仕事があるかどうか、そこに配属される可能性はあるのか、探りを入れつつと言うのを忘れずに、クソ事業所のパワハラの訴えと、他の選択肢を探るための時間稼ぎをすることだろうな。備えよう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

林業就業支援講習の三分の三が終わった話

 死ぬほど疲れた。

 

 最終週の前四日は実習and実習and実習で、ひきこもりには全身筋肉痛+熱中症寸前でそれはもうキツかった。

 

 下草刈りや除伐、枝うちに間伐等々、林業の基本的な仕事を一通りやったが、どれもその作業や機械の扱い自体に特別難しいという事はなく、最後には研修生だけで木を倒すなども問題なくこなせていたが、どれもこれもとにもかくにも力、体力勝負で、林業への適正の判断は何よりここでするべきなのだという事がよくわかった。

 ついでに現場での教科書に載ってない木の倒し方も教わったが、こちらは確かに林業が死亡率第一位たる所以を知ることになるレベルで危険なものだったので割愛。

 

 最終日は全国及び実施県の林業の就業状況のお話や、林業に全く関係のない移住関連のお話などもあり、たいへん為になった。

 

 林業自体の就職で言えば、法人化が進んでいる林家が多いため、作業員として入り込むことは現実的なようだ。そこで働き続けたからと言って山を買って独立していけるほど儲かるかどうかはさておき。

 

 そうしてそれらが終わった後は、チェーンソウと刈り払い機、3t未満の重機、人命救助?の特別教育修了証と、全国の林業就職に多少役立つらしい講習の修了証をもらって、講習は終わった。

 

 とまぁあったことをざっくり書き殴って3記事な訳だが、講習のそれらを通して得たものは多かった。次あたりで得たもののまとめを主に自分用に書き出してみたいと思う。

林業就業支援講習の三分の二が終わった話

 つかれた。

 

 という訳でその三分の二が終わって戻ってきたところだ。

 

 今週は重機の特別教育、現場や市場、加工場の見学ときて、とうとう実習が始まった。

 

 参加してる人たちの身の上が多様過ぎる事、結局林業は農業以上に土地持ってないと全くお話にならない事、重機の操作が思った以上に簡単だった事etc...書くこと、書けることは山ほどあるが、いかんせん疲労感が酷い。

 

 と言うのも、座学の会場は自宅から通えない距離ではなかったので、自宅へ帰る日もあったが、実習や教習はそうもいかず、外泊and外泊の日々だった。実習より明らかにコレがきつい。

 ネットカフェは環境が悪くはないにせよ、飽くまでネットカフェであってホテルではない為にアメニティが無さ過ぎるのでカプセルホテルに行ってみたものの、こちらは頭がおかしくなりそうなくらい夜の雑音が酷い。耳栓は目覚ましを無効化してしまうので使えず、一時間おきにあちこちから聞こえてくるイビキや中国語、寝返りで壁をぶっ叩く音で覚醒させられて、ほぼ寝ることは出来ない地獄のような環境で、大陸に迷い込んでしまったのかと錯覚するレベルだった。

 その後は結局ネカフェに出戻ったが、こちらも悪くないとは言え、狭いし物はないしでカプセルホテルよりはマシと言ったところで、まるで体も心も休まらず、ひたすらひたすら疲労は蓄積して、なんとか生き延びて今日を迎えたわけだ。

 

 

 あちこち出歩いたり、外国へ行ったりする暮らしに対しての憧れがまだうっすらと残ってはいたが、どうにもバイタリティも適応力も足りない神経質な小動物には向いてない生活のようで、定住してのんびり家の周りだけで生きる事の良さが再確認できたのは収穫だったのかもしれない...。

 

 おそらく二日休んでも取れない疲労が体にのしかかっているが、残る三分の一、なんとか乗り越えて帰ってきたいな...一応休んでも諸々の資格は貰えるようなので、無理のない程度に...